盛岡から北海道新幹線「はやぶさ」に揺られること2時間と少し。
かつて渡島大野駅と呼ばれていた新函館北斗駅に到着します。新幹線
受け容れのため駅舎は全面改築され旧駅の面影はありません。
新幹線のルートは将来の札幌延伸に備えて函館の市街地を避ける
ように北へ向かって伸び、新函館北斗に達しています。このため
新函館北斗駅と函館駅の間を「はこだてライナー」という快速
電車が約20分で結んでいます。その電車に乗って函館駅へ。
啄木の足跡はやはり函館の市街地に見て取れるからです。

1907(明治40)年5月、啄木は妹光子を伴って函館に渡り、半月ほど
函館商工会議所臨時雇いとして働いたあと、函館市立弥生尋常
小学校の代用教員の食を得ました。夏には家族を呼び寄せ、代用
教員のまま函館日日新聞の遊軍記者を兼ねる、という今で言えば
ダブルワーク状態で奮闘していました。しかし運の悪いことに
8月25日に起きた函館大火により小学校も新聞社も焼失して
しまいました。結果的に啄木の函館滞在はこの年の5月5日
から9月13日までの132日間でした。

函館到着前の心境を
「石をもて追はるるごとく ふるさとを出でしかなしみ 消ゆることなし」
との強烈な哀調で謳いあげ、波高き津軽海峡の船旅を
「船に酔ひてやさしくなれる いもうとの眼見ゆ 津軽の海を思えば」
と表現しました。

函館山の麓、市電青柳町電停近くにある函館公園を訪れます。青柳町は
啄木の住んだ町であり、
「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」
の歌碑が函館公園の中に置かれています。また
「こころざし得ぬ人人の あつまりて酒飲む場所が 我が家なりしか」
との歌も青柳町の家をうたったものでしょう。

また津軽海峡を臨む大森浜には啄木小公園があります。道路際にある
まるで小さな駐車場公園のような場所ですが、啄木が函館に住んだ
頃には高さ20メートルほどの砂山があり、さながらあたりは小さな
砂丘のようだったと言います。啄木はよくこの海岸を散策したらしく
津軽海峡の彼方に望める下北半島のさらにはるか南にある盛岡を
思い、望郷の思いにかられていたのかも知れません。まだ21歳にしか
ならない青年でした。この小公園には啄木のブロンズ製坐像があり、
「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや」
の歌が台座に刻まれています。

そして函館山南端立待岬には啄木一族の墓所があり、その墓石には有名な
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」
が刻まれています